一を聞いて以って十を知る|聞一以知十|論語 三巻 公冶長第五|

第二章 自己を高める

一を聞いて以って十を知る
一を聞いて以って十を知る

第二章 自己を高める

 

一を聞いてって十を知る

ー聞一以知十ー   論語 三巻 公冶長第五
(論語:十巻二十編。孔子や孔子の門弟の言行を記したもの。儒家の聖典とされている。四書の一つ。)

{原文}

子謂子貢曰、 
「汝與回也孰愈」 
對曰、 
「賜也何敢望回 
回也聞一以知十、 
賜也聞一以知二」 
子曰、
「弗如也 吾與汝弗如也」

{書き下し文}


子、子貢しこういていわく、

なんじかいいずれかまされる」
こたえていわく、
や、なんあえかいのぞまん。
回や、一を聞いて十を知る、
賜や、一を聞いて以て二を知るのみ」 
子曰く、
弗如也しかざるなりわれなんじ弗如也しかざるなり。」

一を聞いて以って十を知る
一を聞いて以って十を知る


{意解}

孔子の愛弟子に、顔回がんかい子貢しこうという二人の人物がいた。
あるとき孔子が、この子貢に語りかけた
「お前と顔回では、どちらが優れているかな」と尋ねた。
子貢が、「どうして、回(顔回)と比べることができるでしょう。
回は、一を聞いて十を知ることができますが、
私はようやく二を知る程度です」
と答えると、孔子が言った。
「そう及ばないね、私もお前同様(回には)及ばないよ」と。  

子貢は表現力においては時に孔子をも上回る才能を見せ、
たびたび「子貢は孔子を超えている」と言われた。孔子の没後、
その弟子たちは孔子の墓の近くで三年間服喪したが、

子貢はさらに三年間、合わせて六年もの間、ふくしたと伝わっている。
孔子への、心からの敬意けいいによるものであったのだろう。

『論語』には顔回への賛辞さんじがいくつか見られる。たとえば孔子が
「顔回ほど学を好む者を聞いたことがない」 と述べたことが記載きさいされている。
顔回は孔子から後継者こうけいしゃとして見なされていた。 それだけに、
世に出ることを好まず、小さな町で窮死きゅうしした時の孔子の落胆らくたんはげしく、
孔子は「ああ、てんわれをほろぼせり」とまで言わしめている。

荀子 脩身に
驥は一日にして千里なるも、駑馬も十駕すれば則ちまたこれに及ぶ」とある。
普段の努力が大切なことを語った言葉である。人間も然り、
天才に比べれば 十分の一くらいの能力しかなくても
続ければ追いつくと説く。
立派な目標を立てても 実行しなければ、絵にかいた餅に等しい。
なんでも、継続することで、 実現の可能性と期待ができると云っている。

 恥ずかしながら、一を聞いて一しか知り得ない自分だが、
己を知って「二を知る」くらいまでの賢明さを身に付ける努力はしたいもの。

*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。

私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。