第二章
坐忘
ー坐忘ー 荘子
(荘子:三十三篇。戦国中期の道家荘周とその一門の思想を記したもの。
荘周の撰。外・内・雑編から成り、内編七編以外の大部分は、
後人の仮託になるものといわれている。「南華新経」ともいう。)
仏教用語として使われているが、 元の出典は「荘子」である。
五体から力を抜き去り、一切の感覚をなくし、
身も心も虚ろになりきった状態だという。
虚心、無心という境地である。
老荘思想に原点となっていることばの一つで、
これを現実政治の場で活用したのが勝海舟である。
幕末に活躍した幕臣で、維新回天の事業やってのけたのが勝海舟。
晩年に、人に請われるまま語って聞かせた話をまとめた 「氷川清話」がある。
百年前の勝海舟の言葉です!
「自分の心に後ろめたいものがあれば、気が萎える。
人は平生踏むところの道筋が大切だよ。順境と逆境を見極め、 相手が乗っているときはかわし、自分が乗ってきたらどんどん押す。
『坐忘』といって、無になっていれば 自在の判断ができるようになる。
功名をなそうという者には、とても功名はできない。戦いに勝とうという者には、とても勝ち戦はできない。何ごとをするにも、無我の境に入らなければいけないよ。
機は感ずべきもので、 言ふことの出来ず、伝達することの出来んものです。
機会は自分のアンテナを高くして感じ取るモノ!!
何事も大胆に無用意(考えすぎずに)に打ちかかること。
成功するまで続ける。 根気があれば敵もいつしか味方になるものよ。
敗北を恐れるな、負ければ、潔く認めて、 あとは野となれ山となれ、だよ。
世の中は不足と不備であるところから進歩が始まる。『定見深睡』といってもうこれでよし、と思うことが進歩の終わりだ。知恵の研究は棺桶の蓋が 閉まるまで続くと思えば面白いものよ。
事を成し遂げる者は愚直でなければならぬ。才走ってはうまくいかない。
事の大きさはあまり関係なく、 必要なのは成し遂げるということ。
人の一生には「焔の時」と「灰の時」があり、「灰の時」は何をやってもうまくいかない。そんな時には何もやらぬのが一番いい。ところが小心者に限って何かをやらかして失敗する。 世間は生きている。理屈は死んでいる。 おこないはおれのもの、批判は他人のもの、おれの知ったことじゃない。世間の事は、気合とか呼吸というものが大切だが、
これは書物や口先だけじゃ分からない。活き学問という事が必要だ。
実地について、人情や世態をよくよく観察し、その事情に精通しなければ駄目だ。
あれのこれのと心配ばかりしていては、 自然と気が餒ゑ神(心)が疲れて、
とても電光石火に起こりきたる事物の応接はできない。
事の起らない前から、 ああしようの、こうしようのと心配するほどばかげた話はない。 時と場合に応じて、それぞれの思慮分別はできるものだ。 第一、自分の身の上について考えて見るがよい。だれでも始め立てた方針どうりに、きちんとゆくことができるか。
とても出来はしまい。元来人間は、明日のことさえわからないというではないか。」 氷川清話より抜粋
たしかに、何事も、欲望や疑念に心が惑わされていては、誤りのない決断(判断・選択)はくだし難い。「坐忘」の域で対処せよ、ということなのだろう。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。