第三章
朝三暮四
ー朝三暮四ー 荘子 斉物論
(荘子:三十三篇。戦国中期の道家荘周とその一門の思想を記したもの。荘周の撰。外・内・雑編から成り、内編七編以外の大部分は、後人の仮託になるものといわれている。「南華新経」ともいう)
{原文}
宋有狙公者。
愛狙、養之成群。
能解狙之意、狙亦得公之心。
損其家口、充狙之欲。
俄而匱焉。将限其食。
恐衆狙之不馴於己也、
先誑之曰、与若茅、
朝三而暮四、足乎。
衆狙皆起而怒。
俄而曰、与若茅、
朝四而暮三、足乎。
衆狙皆伏而喜。
{書き下し文}
宋に狙公なる者有り。
狙を愛し、之を養ひて群れを成す。
能く狙の意を解し、
狙も亦公の心を得たり。
其の家口を損じて、狙の欲を充たす。
俄にして匱し。将に其の食を限らんとす。
衆狙(猿たち)の己に馴れざらんことを恐るるや、
先づ之を誑きて曰はく、若に茅を与ふるに、
朝に三にして暮(ゆうぐれ)に四にせん、足るかと。
衆狙皆起ちて怒る。
俄にして曰はく、若に茅を与ふるに、
朝に四にして暮に三にせん、足るかと。
衆狙皆伏して喜ぶ。
{意解}
目先の違いに気をとられて、実際は同じであるのに気がつかない、結果は同じなのに表面的な利害にとらわれることや、そのようにして騙すことを 「朝三暮四」というようになった。 派生的な用法であるが、中国では、考えがコロコロ変わって定まらない意味でも 「朝三暮四」が用いられている。
宗に猿回しをする人がいました。彼は猿のことを愛し、猿の群れを養っている。彼は猿の気持ちがわかり、 猿もまた、彼のことをわかっていた。彼は自分の食いぶちを減らしてでも、猿にエサを与えて満足させていた。ところが男は貧乏になり、猿の餌代にも事欠くようになった。そこで猿のエサを減らそうと思ったのですが、 エサを減らすことで、サルが自分になつかなくなることを恐れる。そこで猿たちをだまそうとして、
「お前たちにどんぐりを与えるのだが、朝に3つ夕方に4つにしたら足りるか?」と聞く。すると猿の群れは立ちあがって怒りだす。そこで彼は、「では、お前たちにどんぐりを与えるのに、朝に4つ、夕方に3つにしたら足りるか?」と提案すると。猿たちは皆、ひれ伏して喜んだ。
備考:
狙公 ー「狙」はサルを意味し、狙公は猿まわしのこと
家口ー 家族の食いぶち、食糧
誑く ーあざむきてと読む。だましての意味 。
茅 ーどんぐり
現代文の用例では 「朝三暮四」の多くは男女の浮気心に使われたり、少数が進路や考え方が定まらず、心が浮ついていることに使われているようです。
このジャンルは「社会を考える」なので、 類義語として「朝令暮改」を上げておきます。「朝令暮改」(朝令夕改)は日本語と同じ意味で政策や方針がころころ変わり一貫性がないことを指す。 最近、テレビを見ていて感じたような気が・・・!?
猿たちの二の舞を演じないようにしたいものですね。
莊子 外篇 山木第二十に「利を以って合する者は、窮禍患害に迫られて相棄つ」とある。利害関係で結ばれた者は、苦境や困難に直面すると、たちまち相手を見棄ててしまうのだという。「天を以って属する者」、則ち、深い信頼関係で結ばれた者同士の場合は、苦境や困難に陥ると、かえって親身になって助け合うのだといっている。苦境の時でも、うわべの誤魔化しやその場しのぎの言動は信頼関係を崩してしまうことにもなりかねない。
後漢書 光武帝紀上に「赤心を推して人の腹中に置く」ともある。下手な駆け引きを弄さず、誠意を態度で示す。そうすれば、打開策も観えてくるかもしれない。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。